1998年12月分のつれづれです。


1998年12月17日(木)のつれづれ
愛情について。愛情って何かなぁ、と考えてみた。「情け」という字が入っているから、同情して愛を注ぐのかなぁ、などと思ってみた。同情というのは言い過ぎだろうとは思うけど、まぁ、情けをかける、くらいかなぁ、それもなんだか良い言い方ではない。ともかく、愛を与えるには、情が必要、ということか。逆に言うと、情があれば愛が与えられる。そう考えると、「好き」というのと、「愛」というのは、似て非なるものとは考えられないか。極端な言い方をすれば、好きではないが愛情を注ぐことはできる。これは言い過ぎか。好きでもないものに愛を与えられるわけがないのだろうか。情が深い人はどうだろうか。そもそも「情」とは何か。うーん、また袋小路に迷い込んでしまった。思いやりがある人のことを「情が深い人」というとすると、そういう人は、相手のことを思ったら愛情を注がざるをえないのでは?相手が思ったようにやらせてあげることは、本当の意味での思いやりとはいえないのかもしれないけど、それでもほったらかしよりは良いような気がする。なんでもやってあげてしまうと、その「愛情」を注がれた人は自立できなくなってしまうかもしれない。今の自分の状態かな?

1998年12月9日(水)のつれづれ
借りた本を読んでいる。研究の合間、グラフをプリントしている時に、ちょこっとずつ。ものすごく考えさせられる。まだ半分くらいしか読んでいないが、共感を抱く部分が非常に多い。そして、自分を見つめ直すことができる。今までいろいろと自分なりに悩んできたことが、すべて小さく見える。作者は、10数年間、病床に伏していたという。そして、その作者が小児麻痺の人を見舞って、涙したという。それに比べれば、私なんて、健康そのもの。人生に疲れた、とか、もう死んでもいいや、とか、贅沢すぎる悩みである。必死で生きている人がいるというのに、その傍らで、無駄に生きている自分が恥ずかしくなってきた。健康な体を持ち、何不自由なく暮らしていることに慣れすぎて、いつのまにかそれが日常になり、さらに上の贅沢を求めてゆく。自分が今生活しているレヴェルを標準としてとらえ、その上のレヴェルはあるが、下のレヴェルはないと考えてしまう。健康ではない人、生活環境に恵まれない人、そういう人がいるということを、見ることが出来ない、あるいは、見ることを忘れてしまっている。あまりにも自分勝手。奢り高ぶっていないつもりでも、無意識に高慢な態度をとっている。もっと自分と向き合って、考えながら残りを読むとしよう。


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