1998年10月分のつれづれです。
1998年10月27日(火)のつれづれ
「見たいと思うものが大きく見えてくるというのがカメラと違う人間の目」、今日の名言。先日日曜日、久しぶりに美術館なるものへ行ってみた。生涯、蔵王を書き続けた画家をとりあげている美術館である。そこで、この言葉を知った。直接その画家が言った言葉ではないようだったが、たぶん、無意識でそう意識して絵を描いていたのだろう。写真と絵を並べて展示してあったが、確かに違う。同じ風景を書かせても、10人10色の絵ができあがるのは、このせいだろう。で、前回のつれづれだが、人間の心というか性格というか、についても、同じことがいえるのではないだろうか。見たいと思って見ているわけではないが、気を引くものがその人のすべてと思い込んでしまうところが、人の心に少なからずあるのではないだろうか。だから、一度好きになった人は、なかなか嫌いになることができず、また、一度嫌いになった人は、なかなか好きになれない。自分にとって、その人のすべてを表すと思っているものに見え隠れするものを見つけ出すのはなかなか難しいと思う。それが面倒だから、なるべく人を見ないようにしているのかなぁ、なんて自分を分析してみたりする。人を好きになるということ、いや、人に限らず、なんでもいいから好きになるということは、その対象物の、良い面が大きく見えてくることなのかもしれない。
1998年10月20日(火)のつれづれ
学祭が終わった。途中、バイトが入ってしまって、フル参加はできなかったが、楽しかった。後で、研究室の指導教官に「M2は忙しいから学科のイベントから外されたのに、あんなことでは緊張感がない」と言われてしまった。実際、自分の研究は週末から今日にかけて、何一つ進んでいない。緊張感がないというか、最近よく考えるのは「人を好きになること」についてである。今までは、できる限り人との接触を避けて生きてきた。それが、自分の事を好きと言ってくれる人に出会って、こういう気持ちが好きという感情なんだよ、と言われても、ピンとこない。別に異性でなくてもいいけど、人を好きになるというのは、どういう感じなんだろう。こんなフワフワした気持ちでみんなと付き合うのも悪いから、離れたいと思うのかなぁ、という気もするし。好きという感情を理解したいと思う反面、知るのが恐いという気持ち反面。人を好きになる方法をよくわかってない自分がのうのうと生きているのがつらくて、逃げ出そうとした時もあった。今もその感情は見え隠れしている。とりあえず、いろいろと考えるのが疲れた。今日は休もう。
1998年10月13日(火)のつれづれ
湧き水を汲みに行った。車で1時間半くらいのところである。平日とあってか、行った時はそれほど混んでなかった。ポリ容器にいっぱい汲んで、帰ってきた。口当たりが水道の水とは全然違い、やわらかい。水を渡した人から、コーヒーとお茶を入れて飲んだらとてもおいしかった、と電話があった。詳しい事を知りたい方は、井戸端会議かメールにて連絡を。
1998年10月5日(月)のつれづれ
今日の名言「常識とは慣れである」。いい言葉だと思いませんか?いいかどうかは別にして、非常識も慣れれば常識になるんですねぇ。そういえば、世の中に出てきた時は、どう考えても非常識だと思っていたものが、今では常識というものが少なくないような気がします。自分の中でも、昔は非常識だったものが、今では常識ということもあるような気がします。ちなみに、言葉の出典は、電磁気の教科書です。この意外性がたまらん。