2005年9月分のつれづれです。


2005年9月24日(土)のつれづれ
昨日は体が動かなくなりました。勘弁してよね、ベッドに寝そべって歯磨いてる時にさ。日本に帰ったら、マジ精神科行ったほうがいいね、これ。帰るまでもてば、だけど。

2005年9月15日(木)のつれづれ
なんの資格があって?自分のことは棚に上げて、よく色んなことを批判したり、その矛先を自分に向けてみたりしているわけですが、ふと、思ってみました。自分が置かれていない環境、つまり、自分自身以外のことに関する感情は、自分がその当事者でない限り、客観的に見た1面でしかないわけです。物事には大抵複数の顔があり、その1面あるいは何面かを見ただけで、自分の物差しでもってその全体を「こうだ」と決め付けるのは傲慢であり、また危険でもあります(もっとも、中に入ってしまって、主観的に判断するのも偏りますが)。当事者は、当事者なりの事情があって行動しているわけで、それを第3者がとやかく言う資格はありません(第3者に何らかの影響力を持っている当事者の行動、というのであれば、何らかの反応を強いられるとは思いますが)。例えば、今自分はブルガリアにいますが、こっちの人たちの行動パターンについて、というのがこれに当てはまると思います。日本人(というか自分)から見たら、なんでこんなことしてるの?っていうことを、よくやらかします。それに対し、いちいち負の感情で反応するわけですが、ブルガリア人はブルガリア人なりの考えがあって行動しているわけで、それに対し、よその国からやってきた人間にとやかく言う資格などあるわけないのです。反応するだけにとどまらず、流布するのもいただけないですね。例えば、「ブルガリアは田舎国家だから云々」とか、とりようによっては批判にもあたるわけで、それを、現地の文化やら習慣やらを全部理解したわけでもないのに偉そうに言うなんて、アンタ何様?ってなもんです。…あ、書きたいことにたどり着く前に力尽きそうなので、他者に対することは、これくらいで。本当に書きたいことは、「自分自身に対する批判」。自称「自分のことが嫌いな人」なんですが(自爆)、これも、ちょっと見方を変えると、かなり傲慢なものの考え方なんですよね。だって、自分が今ここにあるのは、両親のおかげ。両親の遺伝子を、色濃く受け継いで、自分が誕生した。そして、その遺伝子を分けてくれた両親を、曲がりなりにも尊敬している自分。つまり、「自分を否定する」ということは、自分が尊敬する「両親も否定する」というわけのわからんことになるんです。もっとも、遺伝子は、あくまで基礎であり、今まで生きてきた中で、そこに自分なりのアレンジを色々と加えているので、「オリジナルを否定する」というのと、またちょっと違うんですが。いずれにしても、「自己否定」というのは、実は結構失礼なことをしているわけです。こう考えることによって、多少は自己卑下が弱まるかなぁ、と思ってみたんですが…「両親尊敬」という大前提が崩れたら、元も子もないな…。


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