2005年1月分のつれづれです。


2005年1月30日(日)のつれづれ
去年の8月に書いた、弟のことについて、さらに補足。4月から三重県の裁判所で働くそうです。ちぇすてぃーと!最近採用内定が来たそうで。内定だけど、よっぽどのことがない限り、大丈夫でしょう。三重県…そう、ワッキーがたどり着くまで4年近くを要したところ(すみません、わかる人だけわかって下さい)…いや、そんなことはいいんですが、新幹線が通ってないから、行くのに意外と時間がかかるそうです。まぁ、でも、自分が10年以上過ごした仙台や、今いるブルガリアに比べたら、全然近い。妹も、多分いずれ出てっちゃうだろうし、そうなると、実家にはやっぱり自分が残らんといかんのやろうなぁ(長男やろっ!おい!)。…あぁっ、話がずれました。そんなわけで、新たな門出に立つ弟に再度、「おめでとう!」

2005年1月29日(土)のつれづれ
伏線、必然、偶然、運命、巡り合わせ、なるべくしてなった、こんなのがちりばめられているのが人生なのかなぁ、と思ってみたりしている今日この頃。「偶然」だけ、ちょっと意味合いが違う気もするけど、まぁ気にせずに。あの時あぁなってたのはこれのためかぁ、と思うことが、最近多いような気がします。それだけ、過去を振り返るだけの余裕が出てきた、ということでしょうか。いっぱいいっぱいの時は、目先のことすら見えてないので、それを除いての話。年を重ねるごとに、嫌でも過去の経験は増えていくわけで、それと、現在進行形のことを照らし合わせた時に、何かが符合する確率が上がっているだけの話といえば、それまで…かな。たとえそうだとしても、何か不思議な「縁」というものがあるんじゃないかなぁ、という気がしなくもないです。人との出会い、様々な事物との出会い、出会った時は、何も感じなかったり、ちょっと良くない印象を受けたりしたとしても、きっと「その次」に生きてくるはず。良い出会いばかりだったら、それはそれでいいんだけど、それだけだと見えないものも、いろんな出会いの中では見えてくるような気がする。だから、自らその「出会い」のチャンスをつぶすようなことは、なるべくしないように、と思ってるんだけど…難しいねぇ、慣れないことをやろうとすると(笑)。ま、ぼちぼち。

2005年1月15日(土)のつれづれ
前回のつれづれの追記。もう1つの「迷惑」。押し付け。「いらない」と思っている人に「与える」。物に限らず、態度、行動、考え方、などなど。これも、モラルといえばモラルのような気がしなくもないけど、前回の「迷惑」は、受け手側でなんとかできそうな「迷惑」に対し、この「迷惑」は、受け手側ではどうにもならない類の「迷惑」のような気がする。交通事故みたいなもの?前回の、大騒ぎの迷惑も、これに近いかな、でも、大騒ぎは、不特定多数が対象だけど、押し付けは、特定少数の場合が圧倒的に多いよなぁ。自分が人に頼ろうとする時に考える「迷惑」には、頼られる側の人の負担になりはしないか、というのと、この「押し付けていないか」というのがあるような気がする。…ん?同じこと言ってる?だんだんわからなくなってきたぞ。まぁいいや。とにかく、相手してくれているうちは、許容範囲内の迷惑しかかけてないということにしておこう。

2005年1月11日(火)のつれづれ
迷惑って、なに?人にものを頼む時、あるいは、話を聞いてもらおうとしている時、他にも自分ではどうにもならなそうなことを人に頼ろうとする時、こんなこと言って、迷惑にならんかなぁ、と考える(考えずに突っ走る時もあるけど)。ここで、ふと、「迷惑」ってなに?って思った。頼られる側の人が、本来は自分の時間を割いて、頼る側の人の対応をする、それを迷惑といったら、生活する上での行動のほとんどは迷惑ということになってしまう。頼られる側の人が、自分の時間を割くことに苦痛を感じなければ、それは迷惑といわないのだろうか。この手の話を人としてた時に、頼られる側の人は「しゃーねーなー」と思いながらも頼る側の人に「何かをしてあげられた」と思うことができるから頼れる時に頼っとけ、というニュアンスのことを言われたことがある(違ってたらごめんなさい)。ふむ、やっぱり頼られる側の人の考え方なのかな。「しゃーねーなー」で済んでいるうちは、迷惑とは言わないのかな。でも、許容値を超えたところで、頼る側の人に面と向かって「迷惑」と言える人って、そんなにいないような気がするなぁ。一応、自分は、人に頼ろうとする時、迷惑だったら言って、と言って頼むんですが、本当は「あーもう」と思っていることもあるかも知れない。態度でそれとなくわかった時は引っ込めてるけど。逆に、自分が頼られる側の人だった場合を考えてみると、どうだろう、あんまり迷惑という感情がないのかも知れないな。面倒そうなこと、厄介そうなことも「へーい」と言って引き受けている気がする。もっとも、どうにもならなくなった時は、迷惑と思う前に逃げてたりするんですが(だめぢゃん)。そうそう、頼む頼まれるに関する迷惑のほかに、たとえば、公共の場で大騒ぎしている人(たち)とかに対して抱く「迷惑」という感情もある。これは、まぁモラル的な話だろうか。一般的には、こういう時はこうするべきだ、というのがあって、そこからあまりにも逸脱した行動に対して「迷惑」と感じる。これも、言ってしまえば「しゃーねーなー」で済むレベルを超えてしまっている行動なんだろうなぁ。やっぱり、受け手の感情次第のような気がする。頼っていいよ、と言われているうちは、あんまり遠慮せず、頼らせてもらうことにしようか。

2005年1月4日(火)のつれづれ
一年の計は元旦にあり…元旦は過ぎてしまいましたが。とりあえず、2005年最初のつれづれです。漢字が怪しかったので、調べてみたら、続きというか出典というかが出てきました。「一日の計は朝にあり/一年の計は元旦にあり/十年の計は樹を植えるにあり/百年の計は子を教えるにあり」という句からだそうです。一句一句、うんうん、と頷けるんですけど、1つめと2つめの句と、3つめと4つめの句は、何となく雰囲気が違うなぁ。…まぁそれはいいです。今年一年、どうするか。「素直に生きる」をテーマにしようかと。人に「2005年のテーマは?」と問われて、考えてみたのがこれです。去年は、年末の、ホントぎりぎりまで理由のわからない沈み込みで、真っ当な思考回路が働いてませんでした。落ち切ろうかと思ってたけど、結局そこまで到達できず、また若干上向き。これも、もしかしたら、感情に素直になって、なんかわけわからんくてもなんでも悲しい時はとことん悲しんでいたら、切り替えが早かったかも、と思うわけです。もちろん、人にかける迷惑は最小限の方向で。「感情のまま突っ走る」というのと「素直になる」というのはイコールではないけど、「感情に素直になる」というのは悪いことではないよね。怒りの感情、悲しみの感情、その他色々な感情、我慢してストレスためるくらいだったら、その感情に素直に従って、自分なりの表現をすればいい。そんな感じで今年一年過ごしてみようかな、と思ってます。


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