2004年2月分のつれづれです。
2004年2月17日(火)のつれづれ
昨日に引き続き、本を1冊読破した。なんだかんだ言っても、やはり日本語に餓えているようで、今の生活とはまるっきり関係ないと思われるビジネス書「弘兼憲史の『超』仕事術」という本。第1刷が1996年に発行されているので、当時の世風を反映した内容になっているが、それでも今の世の中でも十分に通用するものだと思う。そして、昨日に引き続き、作者が文中で引用している言葉にハッとした。松下幸之助氏の座右の銘「利潤追求ということは考えないで、自分が与えられた仕事あるいは自分がやるべき仕事は何かをはっきり認識して、ただ自分のその仕事を全力をつくして一所懸命成し遂げろ」というもの。今の自分にピッタリではないか。利潤を追求する必要がないから考えなくてよいし、自分に与えられている仕事、あるいはやらなければいけない仕事はある程度認識しているし、あとは「全力を尽くして成し遂げる」だけ。でも、それは難しいこと。焦らず急がず、かといって気を抜きすぎず、着実にできることから。千里の道も一歩から。ま、ぼちぼちいきましょ。
2004年2月16日(月)のつれづれ
俵万智の「ある日、カルカッタ」という本を1晩で読んでしまった。外国に来て、日本の書物、しかしその内容は異国情緒あふれるもの、こういった状況が最後まで一気に読ませた、と言えなくもないが、それ以上に作者の描写・表現、そしてそこから伝わってくる「何か」に後押しされて読破したようにも思える。中でも「スモーキーマウンテンの子どもたち」には、いたく心を揺さぶられた。そして、その中で、衝撃的とも言える引用がされていた。「寺山修司の遺稿『懐かしのわが家』の冒頭」から『昭和十年十二月十日に/ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかゝって/完全な死体となるのである』という下り。スモーキーマウンテンのゴミに対する作者の引用であるが、それにとどまらず、別章に何度か登場するインドの世界観も暗に示しているような気がする。死体、すなわち「死」というものの存在が、生まれた時から日常的である国、インド。死体として生まれてきた、と言い放つ寺山氏と、どことなく同じ匂いがする。ただし、正負のイメージで言ったら、インドは正のイメージ、寺山氏は負のイメージという気がする。圧倒的な生命力を持つインド、訪れたことがある人の、価値観が変わるというのも当然かも知れない。俵女史も、何か自分の中に変化を見出せただろうか。…なんか読書感想文みたいなつれづれですね。余談ですが、この本の発行が、3年前の自分の誕生日でした。日付が同じだと、なんとなく嬉しいですね。
2004年2月14日(土)のつれづれ
何事もなく普通に暮らしているのが日常だと思っていると、普通に暮らせなくなることが非日常だと感じる。しかし、その非日常に慣れてしまうと、それが日常だと思ってしまう。そして、また元の生活に戻ると、それを非日常だと感じ、また慣れてくれば普通に生活できてしまう。一体、何が「普通」で、何が「日常」なんだろう。自分が、現在位置していて、尚且つ十分に慣れた生活形態を「普通」と言うんだろうか。しかしながら、あまりにも異なった環境に放り込まれると、拒否反応を示すのか、いつまでも「非日常」だと感じる。そもそも、「普通」とは何か。良くもなく、悪くもなく。可もなく不可もなく。何かと都合のいい言葉だ。「普通」にしていれば、特に文句も言われることもないかわりに、誉められることもない。目立たない、というのと似ているかも。でも、実際「普通」に生活している人っているのかな。いくら静かに暮らしていても、何かしら表沙汰になることがあるような気がする。「普通」が一番「異常」なのかも。
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