2001年4月分のつれづれです。


2001年4月14日(土)のつれづれ
知り合いの人から短いエッセイをいただいた。ちょっと考えさせられたので、ここに紹介させていただく。一応このウェブサイトに載せる許可は本人から得ている。

    キリストが投げた石
 JR新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとした韓国人の留学生と日本人カメラマンが電車に轢かれ即死した。危険をも顧みず救助しようとしたことへの感謝の思い、そして悲しさとが激しく往来して止まない事故であった。また、中学生が水に溺れた同級生を救った報道もあった。「受験を控えている友達を助けたかった」と、救助した少年は語っていたそうである。
 おとなになれない大人や少年達が引き起こす事件があまりに多く、自分の欲求を満たす為には人の命など、虫を殺すかゴミをはらう程度のことにしか思っていなさそうな昨今である。その中でも、今回の事故は悲しさの中に複雑ながら心のぬくもりと、無償の愛と言うものを私達に問いかけ、そして、遺してくれたと思う。
 さて、この二つの出来事を考えてみると、前者の二人と後者の一人に「共通点」があるように感じられた。それは、もし彼らのなかに自己犠牲を厭う心が微かにでもあったなら、とっさの判断で他人を助ける行動には出なかったのではあるまいか。殉死した二人は、一人が韓国人留学生でアルバイトをしていた。働きながら学ぶその意志力は想像できよう。そして、もう一方がカメラマン、これも、芸術家として認知されるにはどれほどの自助努力を必要とされるだろう。そして、川から同級生を救った中学生、学力だけではない小さな努力の影を感じられないだろうか。
 つまり、この三者の「共通点」とは、多くの面で創造的精神を自己に育みながら、努力、そして開拓して生きていたのではないか、、つらきを経て、はじめて、自分以外の人をいたわる心が宿る。それだけ清くしっかりした心が育まれていると思うのである。
 私は、故三浦綾子さんの著作「塩狩峠」の主人公を思い出した。列車の連結器が外れ、暴走をはじめた後部の一両。下り坂とカーブの続く線路。非番で乗り合わせていた彼が手動ブレーキを回したがその効果は何ほどのこともなかった。急カーブにさしかかれば脱線転覆は避けられない、乗客を救うために主人公は決心した。車両の最後部から自分の肉体を線路上に横たえたのであった…。実話を元にしたもので、今でも現場を訪れる人々がいるそうである…。
 イエスキリストは、十字架に架けられ両手を釘で打ちつけられ、ヤリで脇腹を裂かれた激烈な痛みの中でさえも「父よお許しください。彼らは自分では何をしているのか判らないのです。」と、祈られた。わたしたちは、何を持ってその深い御心に応えられるのだろうか…。
 前述の犠牲者二人がキリストを信じていたかどうかまでは判らない。然し、主イエスは、このことを通して、自分主義の悪しき社会、泥沼の水面のような社会に一石を投じたのではあるまいか。
※ルカ十章三十節〜三六節
 ヨハネ章二四節〜二五節

「愛」とは何か、前にもちょっと書いたが、それとはまた違う「愛」が、ここには描かれているような気がする。

2001年4月1日(日)のつれづれ
本棚を整理していたら、昔つけてた日記が出てきた。大学4年生の頃のもので、読んでたら、今とあんまり思考回路が変わらないことがわかった。成長がないらしい。んで、自分で書いておいて、自分で考えさせられた所・気になった所をちょっと抜き出してみることにする。
1996年8月25日(日)・・・(前・中略)もうすぐ日付が変わるというのに、まだ洗濯機が動いている。抑えようとしてもムカつく。
1996年8月31日(土)・・・(前・中略)「アマチュアの楽しみは『不確実性』であり『未知との遭遇』である」「アマチュアとは『知的冒険』である」「QTH、QRA、正しくは経度・緯度で示した運用場所(これは元が海洋無線であることにもとづく)、局名」「QSO中、話題に困ったら自分の地域の話をしろ」などなどなど・・・。
1996年11月7日(木)・・・(前略)最近独り言が多い。寂しいのだろう。話し相手がいない。みんな上辺だけの付き合いだ。本心は誰にも打ち明けたことがない。こうやって精神破壊していくのか、という入り口に立っているかも知れない。精神分裂や二重人格、多重人格は、一種の現実逃避なのかもしれない。欲求不満・ストレス・フラストレーション、全て自分のうちに秘め、別の自分を作り出す。偽りの自分は、自分であって自分でない。この頃は逃避したいことが多すぎる。精神的に弱い自分にとってはこたえる。自ら命を絶つところまでは考えないが、何かの拍子で死んでしまっても後悔はしないだろう。もう疲れた。自分がいなくなったら悲しんでくれる人はいるか。心から悲しんでくれる人は本当にいるのか。こんな、何のとりえもない自分のために、泣いてくれる人はいるか。どうでもいいことばかりではないが、どうでもいと思うことが多い。単に責任逃れしたいのだろう。自分に関わりのないこと=どうでもいい。宗教が悪い、というが、そんなことはない。誰でも、口にこそしないが、信念は持っている。それが信仰であり、宗教である。強制がいけないのだ。人類滅亡は、そう遠くないだろう。自分が生きているうちにやってくるかも知れない。もしそうなったら面白い。一つの種の滅び行く様と、死後の世界が見られる。死とは何か。医学的に見れば、生物としての機能が停止した時をもって死というだろう。今、この文章を書いているのは、手だ。命令しているのは脳及び運動神経である。では、文章を考えているのは何か。やっぱり脳なのか。精神世界は、また別次元ではないか。様々な雑念が、言葉・文章にする前に消えてしまう。また、平行して、色々な思考が渦巻く。本当の死とは、考えることをやめてしまった時ではないか。あふれんばかりの雑念が、ぴたりと止まってしまった時である。考えるのをやめようと思っても、それは無理である。必ず何かしら思っているものである。さっきから楽曲がうるさい。最近特に印象に残ったからだろう。これは、自分から思い出そうとしているのか、それとも、どこかからか流れてくるものなのか。一度気になると、なかなか離れない。もっと書きたい。書くことでしか欲求を解消できない。人と話すのが苦手な自分。もっと積極的に、と思うが、気持ちばかりあせって行動に出ない。何かがブレーキを掛けているみたいだ。人と話すより機械と話していたほうが楽だ。機械は嘘をつかない。人は話に裏を持たせる。人が何を考えているか、つかめない。人が欲することがつかめない。結果、意味のない言動に走る。人見知りは、どうしたら直るか。初対面の人に、どう対処したらよいのか。惚れっぽく、飽きやすい。熱しやすく、醒めやすい。きちんとしすぎるのも嫌われる。適度にいい加減がいい。度が過ぎてもいけない。中間色は、作るのが面倒で、その維持も難しい。多分、結婚できないだろう。それ以前に、お付き合いもできないだろう。誰がこんな面白くない男に目を向けるか。理解者は誰もいない。誰も本当の自分をわかってくれない。自分で自分のことを自分に納得いくよう説明できない。逃避の一つの手段として、偽りがある。今書いているこの文章も偽りである。何一つとはいわないが、相当コーティングしてある。文章にすら本当のことを書けない。逃避するために書いている文章が逃避している。面倒くさがり屋だ。できるだけ楽をしようとする。面倒なことからは逃げたい。しかし、行く手に立ちはだかる。
1996年11月8日(金)自殺する人が、前兆を見せなかった、人を殺す人がそんな様子見せたことなかった、というのは、わかる気がする。そういう人達は、行動におよぶ自分をひた隠しにしているからだ。もともと気の小さい人が、そういう行動におよぶのだろう。耐えて耐えて、ある時プツッとどこかが切れるともうまわりが見えなくなる。今までおさえこんでいたものを、一気に吐き出すものだから手におえない。自分は、そういう危険性をはらんでいると思う。まだこうやって客観的に見ていられるうちはよいが、まわりが見えなくなってくるとやばい。本当に腹が立っている時は、頭が真っ白になる。緊張している時も真っ白になる。
1996年11月23日(土)最近死のうとしている。確率の高い方、高い方へ行動している。自分で自分の首は絞めない。受動的な死を望んでいる。バスで事故ってとか、列車で事故ってとか。今までおれに金をつぎこんでくれた人には申し訳ないが。なんかどうでも良くなってきた。そのせいか、最近妙に気分が晴れ晴れしている。多少のことでは腹が立たないらしい。死ぬなら楽に死にたいないぁ。苦しまずに死にたい。半身不随とかで生き恥をさらしたくない。迷惑はできるだけかけずに、というのが理想だが。生きている以上、何らかの迷惑はかける。それは人にだけでなく、環境に対してもである。おれは生きる価値があるのだろうか。
1996年11月25日(月)異常なことを異常だと思わなくなってきた時、その人は異常である。しかし、異常という基準はどこで決まるのだろう。大多数の人間が正しいということが正常で、少数意見が異常だろうか。何が正しいかもわからず、正常異常の判断はできない。本人が正しいと思ってやっていることは、その人にとっては常識であり、他人から見れば非常識であることが多い。自分で自分のやっていることが異常だと感じているうちはまだ良い。自分の非は気付かないものだし、なるべくなら気付きたくない。だから、指摘されると腹が立つ。そこでそれをぐっと抑えて、自分の肥料にする人は伸びるし、爆発させる人は成長しない。神は存在するのか。いるような気もするし、いないような気もする。どう考えても、誰かが引き合いしてくれたような出会いがあれば、いるような気もするし、平々凡々と暮らしているだけだといないような気がする。運が悪いことが重なると、やっぱりいるかもしれないと思うし、良いことも悪いこともそんなにないと言葉そのものが頭からなくなる。この本にこういうことを書くということは、鬱気味になっているということだろうか。気分屋は扱いが難しい。(後略)
1996年12月5日(木)毎日、同じことの繰り返し。朝、起きて、身支度して、御飯食べて、歯磨いて、トイレ行って、自転車乗って駅へ行って、電車に乗って、バスに乗って、学校へ行って、御飯食べて、研究室へ行って、御飯食べて、部室へ行って、終バスに乗って、電車に乗って、自転車に乗って帰ってきて、風呂入って、寝る。たまに、目が覚めなければなぁ、と思う。逃げの口実でしかないのは分かっている。自分が何をしたいのか分からない。何をするために生きているのか分からない。何をするかを探すために生きているのか。最近、子供の生態についてかかれた本を読んでいる。なるほど、と思いながら読む反面、違うんじゃないの?と思うこともしばしばある。誰も、他人の心の中などわかりはしない。自分自身の心の中だって、わかりはしない。自分という中に、見られたい自分と、見たい自分がいる、と誰かが言った。互いに打ち消しあい、自己完結している。見られたい自分の中にも、外から見られたい自分と、内から見られたい自分がいて、見たい自分の中にも、外を見たい自分と内を見たい自分がいるのかも知れない。うまくバランスが取れていればいいが、大抵の人は崩れていると思う。外にベクトルが向いている人は、開放的であると同時に自分が見えていない。内にベクトルが向いている人は、閉鎖的であると同時に自分が見えすぎる。自分が見えていないというのは、ある意味幸せなのかも知れない。自分がよく見えると、良い所も悪い所も、どんどん見つかる。しかし、決して均等には見つからず、よほどの自信家でない限り、悪い所ばかり発見する。
1996年12月11日(水)光の洪水/本当の星空がない。/本当の闇がない。/どこかに光がある。人工的な光が。/天然の光は、とても微弱で、ちょっとしたことでなくなる。/昔は、夜は真っ暗だった、と誰かに聞いた。/今は、真っ暗な夜なんて、どこへ行ってもない。/生物(人間)の営みが、どんどん夜行化している証拠だ。/人工衛星で、宇宙から地球を見るとよくわかる。/無気味な黄色いジュウタンが広がっている。/ 一度でいいから、人工の光が全くないところで星を見たい。映画のように。/えらそうなことを書きながら、自分も光を作っている。/間近で見れば、月なんかよりずっと明るい光を。/夜は夜らしくあるべきだ。/無理に活動する必要はない。/人間本来の生活リズムを取り戻すべきだ。/日が昇り始めたら動き出し、日が沈んだら眠る。/明るいうちにできなかったことは、次の日に持ち越せばいい。/心のゆとり、余裕が欲しいものだ。
ここで日記は終わっている。結局半年も書かなかったらしい。いかにも自分らしい内容であるとともに、飽きっぽさも変わってないようだ。しかし、このHP、いまだに続いている。多少は成長したのか?


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