四国歩き遍路 〜同行二人〜 読経中の文、心経、真言など


「懺悔文」
我借所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔
(がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆむしとんじんち じゅうしんごいししょしょう いっさいがこんかいさんげ)
[私が昔からつくってきたいろいろの悪い行ないは、すべていつが始か知れないほどのさけがたいむさぼり(貪)と、いかり(瞋)と、まよい(癡)とによる身(からだ)と口(ことば)と意(こころ)との三つのはたらきから生じたものです。それらすべての罪を私はいま悔い改めます。]

「三帰」
弟子某甲 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧
(でしむこう じんみらいさい きえぶつ きえほう きえそう)
[仏さまの弟子となった私は、いつまでも仏さま(仏)を信仰し誠心(まごころ)をささげます。仏さまの説かれた教え(法)を信仰し誠心をささげます。仏さまの教えを実践する人々(僧)を信仰し誠心をささげます。]

「三竟」
弟子某甲 尽未来際 帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟
(でしむこう じんみらいさい きえぶっきょう きえほうきょう きえそうきょう)
[仏さまの弟子となった私は、いつまでも仏さま(仏)を信仰し誠心(まごころ)をささげ竟(おわ)ったことを確信しました。仏さまの説かれた教え(法)を信仰し誠心をささげ竟ったことを確信しました。仏さまの教えを実践する人々(僧)を信仰し誠心をささげ竟ったことを確信しました。]

「十善戒」
弟子某甲 尽未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見
(でしむこう じんみらいさい ふせっしょう ふちゅうとう ふじゃいん ふもうご ふきご ふあっく ふりょうぜつ ふけんどん ふしんに ふじゃけん)
[仏さまの弟子となった私は、いつまでも殺生をしません。ものを盗みません。ふしだらな行為をしません。うそいつわりを言いません。心にもない綺麗ごとを言いません。悪口を言いません。信用を失うことを言いません。ものを慳(おし)み欲ばったりしません。いかり憎むことをしません。間違った考え方をしません。]

「発菩提心真言」
おん ぼうぢ しった ぼだはだやみ
[私はさとりを求める心をおこします。]

「三摩耶戒真言」
おん さんまや さとばん
[あなたは仏さまと一体平等であります。]

「開経偈」
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義
(むじょうじんじんみみょうほう ひゃくせんまんごうなんそうぐう がこんけんもんとくじゅじ がんげにょらいしんじつぎ)
[この上ない深く尊い仏さまの教えは、長い時間を経ようともなかなか出会うことはできません。私は今幸いにもめぐりあい、手にすることができました。ただ願うところは、仏さまの本当の教えを体得したいものです。]

「般若心経」
仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩垂(本当は、つちへんに垂) 依般若波羅蜜多故 心無圭(本当は、あみがしらに圭、以下同じ)礙無圭礙故 無有恐怖遠離一切顛(本当は、眞+頁)倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経
(ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう かんじざいぼさぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりしぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうしやくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとっこ ぼだいさった えはんにゃはらみたこ しんむけげむけげこ むうくふおんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいくしんじつふこ こせつはんにゃはらみたしゅ そくせつしゅわつ ぎゃてぎゃて はらぎゃて はらそうぎゃて ぼじそわか はんにゃしんぎょう)
[すばらしき「ほとけの智慧」の完成の真髄を教えた経 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。 舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。 舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、生じたり滅したりすることもなく、きれいも汚いもなく、増えたりもせず減りもしません。 そして、原始仏教(小乗仏教)においては、現象世界を五蘊、十二処、十八界といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。また、原始仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、そのこころにはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、こころは徹底して平安であります。 また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、この上ない完全な悟りを開かれました。 それゆえ、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力ある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることを知りなさい。それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。すなわち、これが真言です。 「わかった、わかったほとけのこころ。すっかりわかった、ほとけのこころ。ほとけさま、ありがとう」 般若心経。]
または[「観音さまは深い智慧に至る修行をし、この世界をなす五つの要素に実体はないと知り、苦を離れ、悟りを得られたのだ。」 舎利子(お釈迦様の弟子の名前)よ、 「姿あるものは常に移り変わる。移り変わり、姿を変えるのが我々が生きる世界の本当のあり方だから、目に映り、感じ、想い、行い、知り得たと思うことに、実体はない。」 舎利子よ、「仏の目で見ればこの世は移り変わっているだけなのだ。生じているのではない、滅してもいない。汚れもせず、汚れを離れることもなく、増えも、減りもしない。」 舎利子よ、「移り変わる世界で、自分が目にし、心に思い、行い、知ったと思うことも実は存在しない。眼や、耳、鼻、舌、身体、心に映るもの、ものの姿、声、香り、味わい、触り心地、ここちよさも移ろうだけのものである。眼にうつり、意識されるものに実体は無く、迷い、悟り、老い、死、老いと死がなくなることも空そのものである。 苦も、苦の原因も、苦の消滅も、苦を抑える道も…そして知ること、得ることすら実は存在しない。移ろうものをとらえられないように。 観音さまは、般若波羅蜜多によって心を安んじていて、自分と他者を区別することもない。その状態に安住しているから、何に対する恐れもない。顛倒した心を遠く離れて、永遠の安らぎに入っているのだよ。 過去・現在・未来の三世のなかでこの真理に目ざめる人々は、永遠の安らぎを与える般若波羅蜜多の智慧によって、この上ない悟りの状態に入るのだ。 その般若の智慧は大いなる真言である。 大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言であり、全ての苦しみを取り除く。般若波羅蜜多の呪文なのだ。」その真言は次のように説かれている。 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(仏の世界へ渡らん。渡らん。悟りの岸へ全く渡らん。無上の悟りにはいり、安らぎを成就させたまえ。)]

「御本尊真言」

「光明真言」
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん
[我と世界の根底から願う なすべきことを現実にする実行力よ あまねくゆきわたる存在力よ 生命に宿れる向上力よ 自他を大事にする生み出す意思力よ 苦しみを見のがさない観自在力よ 生きとし生けるものの幸いを 生き生きと活動あれ 努力あれ]

「大師御宝号」
南無大師遍照金剛
(なむだいしへんじょうこんごう)
[まごころをこめて、弘法大師様と、弘法大師様のお導きとお救いの慈徳を敬い、信心をささげます。]

「回向文」
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道
(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)
あるいは、 願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に 仏道を成ぜんことを
(ねがわくは このくどくをもって あまねくいっさいにおよぼし われらとしゅじょうとみなともに ぶつどうをじょうぜんことを)
[願うところは、お経をお唱えすることに得られた信心のよろこび(功徳)をすべての人々にわかち与えて、私たちとすべての人々が共にみな仏道を精進しましょう。]

「神社での参拝の作法」
1.二礼二拍手後、祓詞奉唱
「高天原に神留ります神漏岐神漏美の命以ちて皇御祖神伊邪那岐命筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生ませる祓戸の大神等諸諸の禍事罪穢を祓へ給ひ清め給へと申す事の由を天つ神国つ神八百万神等共に天の斑駒の耳振り立てて聞食せと恐み恐みも白す」
(たかまのはらにかむづまりますかむろぎかむろみのみこともちてすめみおやかむいざなぎのみことつくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはらにみそぎはらへたまひしときにあれませるはらへどのおおかみたちもろもろのかがごとつみけがれをはらへたまひきよめたまへともうすことのよしをあまつかみくにつかみやほろずのかみたちともにあめのふちこまのみみふりたててきこしめせとかしこみかしこみももす)
2.奉唱後、二拍手一礼

参考文献(というかほぼ丸写し)
真言宗仏前勤行次第
ポケット般若心経
四国遍路 作法とお経の意味(1番霊山寺でいただいたもの)
御本尊さまとご利益
在家勤行法則「梵行」(石手寺発行)
神社での参拝の方法(新四国曼荼羅霊場会)


「歩いてみたい方へ」に戻る